HOME >> 南部潜り解説
<1.南部もぐりの始まり>  【English(PDF)】
明治31年6月25日(1898年:114年前)の夜、函館から横浜に向っていた、『名護屋(なごや)丸(まる)』(2835トン)という船が濃霧のために、洋野町種市の平内沖で座礁(ざしょう)しました。浸水する船はそのままに避難するしかありませんでしたが、幸い乗客(34名)、乗組員(76名)は全員無事に上陸することができました。
翌(よく)明治32年、『名護屋(なごや)丸(まる)』の船体を解体、引き揚げするために、三村小太郎ら4名の房州(ぼうしゅう)潜水夫(房州(ぼうしゅう)は現在の千葉)が洋野町にやって来ました。この工事の雑役夫(ざつえきふ)(潜水装備を身に付ける手伝いなど、船上でダイバーの補助をする者)として雇われた地元の青年『磯崎(いそざき)定吉(さだきち)』は、もぐり(潜水)の達人、三村小太郎にその才能を見込まれ、ヘルメット式の潜水技術を伝えられ、『南部もぐり』が誕生しました。

※種市のもぐり(潜水夫=ダイバー)が”南部もぐり”と呼ばれるのは、この地域が八戸南部藩の領地だったからです。

<2.南部もぐりの名が全国に広まるきっかけ>
十和田神社再興のため、神主は十和田湖の底に沈む賽銭(さいせん)の引き上げを考えました。数百年にわたって参拝者が十和田湖に投げ入れた賽銭を引き上げてその資金にしようとしました。
十和田湖には八郎太郎(龍神)と南祖坊(なんそぼう)(のちの青龍権現(せいりゅうごんげん))の戦いの伝説にもとづく聖地という考えがあり、他の潜水夫たちは神の祟(たた)りをおそれてその仕事をしようとはしませんでした。
そんな中、定吉は七日七夜の沐浴(もくよく)祈願(きがん)により身を清めた後、この仕事に挑み、20日がかりで十和田湖の底からお賽銭を引き上げました。この時の報酬として定吉は荷馬車7台分もの賽銭を手にし、このお金を元手に潜水を事業とする礎(いしずえ)を築きました。また、このことが南部もぐりの名が全国に広まるきっかけとなりました。

「我(われ)に五十の齢(よわい)を与えたまえ。我(われ)種市潜りの始祖(しそ)たらん」

定吉は神社の青龍権現(せいりゅうごんげん)に成功を報告し、自らの未来を祈願しました。大正11年、まさにその言葉通り50才で人生の幕を閉じました。

<3.南部もぐりの活躍>
南部もぐりは、日露戦争(明治)、第一次世界大戦(大正)、第二次世界大戦(昭和)などで沈んだ船等の解体、引き揚げに世界各地で活躍し、同時に日本のサルベージの名声を高めました。
現在では、ヘルメット式潜水だけではなく、スキューバ式やフーカー式、全面マスク式など各種の潜水方式を駆使し、本州四国連絡橋やレインボーブリッジ、東京湾アクアラインなどの海中部分の工事、関西空港の浚渫(しゅんせつ)、その他、港湾土木、サルベージ、海洋調査研究、水産業などの各分野、全国各地、海外で活躍しています。

<4.南部もぐりの仕事>
サルベージ : 座礁(ざしょう)、沈没した船などの調査、引き揚げ等
港湾土木: 港や防波堤などを造る際の基礎の造成など水中部分の作業
橋などの工事: 橋の工事において、橋脚(きょうきゃく)や橋台(きょうだい)などの水中部分の作業
海洋調査: 生物や資源、水質、地形、地質などの調査の他、海中にある構造物等の状態などの調査
水産業: 魚介類を採るだけではなく、養殖設備や定置網等の検査や補修等
その他、水中での作業を幅広く行っています。

<5.南部もぐりの装備>
ヘルメット: 銅製(20kg程度)で、カップとシコロで構成されている。カップには送気ホースがつながり、常時、空気が送られる。シコロは潜水服と密着させ水が入らないようになっている。
潜水服: ヘルメット用のドライスーツで、全く水が入らず、中にたくさんの空気をためられるようになっている。
潜水靴: 底が鉄製で、体のバランスをとるため重くできている(両足で15kg〜20kg程度)。
前鉛・後鉛: シコロの前後に取り付け、体のバランスをとるために取り付ける(両方で25kg〜30kg程度)。これらがないと、腕に空気がたまった時に、腕が浮いて体が横向きになってしまう。
腰ベルト: 腰に巻き、潜水服の下半身側に空気が入りにくくする。下半身に空気がたまると、逆立ち状態になってしまう。腰ベルトには、送気ホースを固定する。
送気設備: コンプレッサー(空気圧縮機)、空気槽(調節タンク、予備タンク)、空気清浄装置、流量計、送気ホースなど
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