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ヘルメット式潜水について

増田平(やすし)氏寄贈
(日本潜水の祖:増田萬吉氏のお孫様)

東亜潜水機株式会社製のヘルメット式潜水器。
製造する技術を持った職人がいなくなったため、このヘルメット式潜水器を最後に製造されていない。
 
  ヘルメット式潜水器の誕生から海洋開発科の潜水教育
 1837年(天保7年) イギリスのオーガスタス・シーベが、排気弁付き金属ヘルメットと潜水服から構成される、現在のものとほぼ変わらないヘルメット式潜水器を開発する。
 1862年(文久2年) オランダの貿易商であるノールトフーク・ヘフト達、外国商人が資金を集めて消火用手押しポンプを輸入し、横浜居留地に組織した消火部隊「横浜商館組」に増田萬吉も所属していた。
 1866年(慶応2年) ヘフト商会所有の「ナッソウ号」の船底が腐食、浸水したため、潜水して修理することになった。
当時消防頭を務めていた萬吉も、ヘフトとオランダ軍人の指導の下、イギリス軍艦「パルシア号」に装備されていたヘルメット式潜水器(シーベ・ゴーマン社製)を借りて潜水作業に加わった。
船底修理は、オランダ人潜水夫の指導の下に行われたが、この体験を通して、萬吉はヘルメット式潜水器の魅力に目覚め、潜水作業の将来性を見出したことで、潜水技術と知識を習得していく。
 1871年(明治4年) 萬吉は、工部省赤羽工作分局にヘルメット式潜水器を持ち込み、日本人の体形に合わせた日本製のヘルメット式潜水器の製作を依頼した。
試作品を萬吉が身に付け実験しながら改良を重ねた。
 1872年(明治5年) 国内でヘルメット式潜水器の製造・利用が始まり、萬吉により、ヘルメット式潜水の技術が広められた。
 1878年(明治11年) 萬吉が、前年に依頼を受け結んだ約定書に基づき、根本村(現在の南房総市白浜町根本)でヘルメット式潜水器を用いたアワビ採りの実験、潜水技術の伝授を始めたことにより、房州もぐりが誕生した。
 1898年(明治31) 種市村(現在の洋野町種市)沖で、函館から横浜に向かう日本郵船の貨客船『名護屋丸』が座礁・沈没した。
 1899年(明治32) 名護屋丸を引き揚げるために千葉県から房州もぐりが種市村に訪れた。
房州もぐりの一人『三村小太郎』から、作業を手伝っていた地元の青年、『磯崎定吉』がもぐりの技術を伝授され、『南部もぐり』が誕生した。
 1952年(昭和27) 種市町(現在の洋野町種市)に『南部潜水協会』が発足した。
協会が中心となり、専門の潜水教育の必要性を訴え、同年12月『種市潜水学校(1年制)』が開校した。
 1963年(昭和38) 岩手県立久慈高等学校別科『潜水工業科(1年制)』となる。
 1970年(昭和45) 岩手県立久慈高等学校種市分校が独立し『岩手県立種市高等学校』となる。
 1972年(昭和47) 『潜水工業科(1年制)』から『水中土木科(3年制)』となる。
 1988年(昭和63) 『水中土木科(3年制)』から『海洋開発科(3年制)』と科名変更し、現在に至る。
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