南部もぐりについて

■ 南部もぐりの始まり
 明治31年6月25日の夜、函館から横浜に向けて航行中の日本郵船株式会杜の貨客船「名護屋丸」(2835トン)が,濃霧のため洋野町種市の平内沖で座礁しました。
 浸水の船体は放棄することになりましたが,幸い乗客(34名)・乗組員(76名)は全員無事に上陸することができました。
 翌32年,船体は解体引き揚げされることになり,三村小太郎ら4名の房州(千葉)潜水夫がこれに従事しました。
 もぐり(潜水)の達人,三村小太郎は組頭格であったといわれています。このとき,工事の雑役人夫として雇われた村人の磯崎定吉は,その天分を見込まれ三村小太郎からヘルメット式の潜水技術を伝授され,ここに南部もぐりが誕生しました。
 種市のもぐり(潜水夫:ダイバー)が
”南部もぐり”といわれるのは、当地域が八戸南部藩の領地であったことによります。
■ 潜水技術の伝授
 房州もぐりは潜水技術の伝授に,伝統的に徒弟制度方式をとっており,一人前の潜水夫になるのに雑役夫1年,ポンプ押し1年,綱夫1年,見習潜水2年の計5年の修業が必要だったといわれています。
 定吉が習得したもぐり技術は,磯崎仁助・磯崎勘助の一族に伝えられ,磯崎一門により房州もぐり同様,厳格な徒弟制度のもとに
”南部もぐり”が育成されていきました。
■ 種市高校の潜水教育
 明治,大正,昭和と受け継がれてきた徒弟制度による地元の潜水夫養成は,科学的教育も取り入れ学校教育の中で行なうことになり,地元及び県の努力により昭和27年に県立久慈高等学校種市分校に「潜水科」が誕生しました。
 その後,昭和38年に別科潜水工業科と名称を変え,海洋開発の重要性が高まりをみせる中,昭和47年に別科潜水工業科を廃止し,工業の土木科に準じた学科として全国唯一の水中土木科が新設されました。
 以来多くの人材を世に輩出,建設業界において機械化された工法が主流となり,水中での各種計測機器の取り扱いやコンピュータ等の操作を習得,近代化された土木に対応できる技術者の養成を目標に昭和63年より水中土木科が募集停止,現在の海洋開発科が新設されました。
■ 南部もぐりの活躍
”南部もぐり”は,明治(日露戦争)・大正(第一次世界大戦)・昭和(第二次世界大戦)などの沈船解体・引き揚げに世界各地で活躍し,同時に日本のサルベージの名声を高めました。
 本校の卒業生は、港湾土木・サルベージ・海洋調査研究・水産業などの各分野において,全国各地・海外で活躍しています。