柴内 魁三
しばない かいぞう
(1879‐1966)
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本校の初代校長。日露戦争に従軍し両眼を失明。その後、盲唖教育を学び、1911(明治44)年に岩手県盛岡市仁王小路に私立岩手盲唖学校を創立しました。また、盛岡市勢にも大きく貢献し、市で初めて水道事業を開始、盛岡病院(現在の県立中央病院)や盛岡消費組合を設立するなどし、盛岡市の市勢振興功労者の第1回の表彰を受けました。
写真は、講話する柴内校長。手話通訳をしているのは、中山キツ(左)・小川口清(右)の2人の教員です。 |
樋下 光夫
といした みつお
(1941‐2015)
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1968(昭和43)年、本校の卒業生で同窓会長も務めた樋下光夫は、26歳の時に「きこえない人が運転免許を取得できないのは、おかしい!差別だ」と国を相手に「運転免許裁判」を起しました。
裁判は最高裁で敗訴が確定。しかし、国は1973(昭和48)年に規則を改正し、補聴器の使用を認め、これにより全国で何十万人という聴覚障がい者が運転免許を取得することができるようになりました。 |
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小岩井 是非雄
こいわい ぜひお
(1894‐1981)
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小岩井是非雄は、本校創立直後の明治45年、ろう教育の指導者として採用されました。東京聾唖学校出身の本校初の耳のきこえない教員として生徒や卒業生、教職員に大きな影響をあたえました。長野県出身で当時、盛岡高等農林学校の教材画技師をしていました。
小岩井は、後に郷里の長野県の松本聾唖学校の初代校長に就任しました。
また、盛岡高等農林時代(当時、宮沢賢治が在学)に描いた緻密な教材画は、現在 岩手大学図書館が所蔵しています。
写真は、寄宿舎でくつろぐ小岩井是非雄。 |
行 啓
皇太子殿下、美智子妃殿下が来校
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1984(昭和59)年10月13日、第8回全国育樹祭にご臨席のために来県された皇太子殿下と美智子妃殿下(後の平成天皇・皇后)が、本校を来校されました。
両殿下は、幼稚部の遊戯、小学部の乙部小との交流学習、保存会と児童生徒による乙部さんさをご覧になられ、幼児児童生徒に終始にこやかに話しかけられました。
写真は、乙部さんさ踊り披露の後、子どもたちに話しかけられる両陛下。案内役は佐々木忠司教諭(後の第12代校長)。 |
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ヘレン・ケラー
(1880‐1968)
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1937(昭和12)年、ヘレン・ケラーが来校しました。前年に他界した恩師サリバンの助言もあり、この年に初来日、全国の盲聾学校を訪問しました。
本校に来校した6月29日、全校を代表してろう児童の及川ナミ(小4)さんが花束を贈呈しました(写真)。ヘレン・ケラーは全校生徒の前で「私たちは決心さえつけば、何でもできる。ただ一人ではいけない。協力し合って行いなさい」との言葉を残しました。
また、県公会堂でも講演会を行い、感極まった満場は、割れるような拍手を送ったとの新聞記事が残されています。 |
岩手の盲聾教育発祥の地に
石碑を建立 |
1989(平成元)年、柴内初代校長顕彰碑として「岩手の盲聾教育発祥の地」の石碑と柴内校長の功績を記した説明板が盛岡市中央通3丁目10番の岩手県民生活センターの敷地の一角に建立されました。
当時の県立盛岡聾学校、県立一関聾学校、県立盲学校の同窓会や福祉関係者により建立されたもので、このような盲聾教育に関係する記念碑は、全国でも非常に珍しいものです。 |
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